画一的な人間なんていない

好かれる人の6つの条件:アルファルファモザイク

A:人に好かれる人
・ネガティブワードをあまり言わない
・気軽に人を誘うことをいとわない
・仮面でない笑顔ができる
・人の話をまっすぐに聴ける
・いつも等身大の自分でいられる
ナチュラルに「楽しむ」ことができる

B:敬遠されやすい人
・物事を悲観的、批判的に捉えることが多い
・支配的に他人に接する
・他人に依存しやすい
・時間的、精神的にゆとりがない
・自分らしさがない
・押し付けがましさがある

やっぱり分かり易い分類物は人気がある。
自分自身を省みてなんとなく修正して理想像に近づいた気分になったり
はたまた好きだったり嫌いだったりする身近な誰かさんに当てはめたり。


しかし一時の分類したっていう満足以外
メリットはあんまり無いんじゃないか。
時と場合によってそんなものは選挙公約みたいにころころ変わる。
支配的に他人に接する人が、
等身大でナチュラルに「楽しむ」事のできる人物であることは想像に難くない。
ネガティブワードをあまり言わない人は、自分らしさが無い。
気軽に人を誘える人は相手から見れば押しつけがましさ全開。
血液型診断はバーナム効果だと言い切れる人物が
ついつい人に好かれる嫌われるの極端な分類にホイホイついて行っちゃっていいのかい。
単純に娯楽として見てるから良いと言われればそうだ。
話しを振られれば「確かに言い得て妙ですね」なんて返事をし、
バーナムだろうがなんだろうが当たってるものは当たっており、
少なくとも外れてはいないんだから返事に嘘はない。
他人とコミュニケーションするわけだから一々突っかかるのも空気が読めない。
こういう批判はオナニータイムにすべきなんだろう。
オナニータイムにすべき事がコミュニケーションの場に出てくるから問題が起こる。


平時には大抵こういう風に考えられる。
平時じゃなくなる時はやっぱり人間なので誰でもある。
どんな人でも身の回りにあまり好きじゃない人がいる。
こういう分類を見たときにそういう人を思い浮かべてしまう。
相手をなんとか変えよう、なんとかやり込めようと日々もんもんとしているもんだから
こういう分類があると「なんとなく当たっている」気がする。
そういえばあの人押しつけがましいよね、そういえば物事を批判しがちがだよね、みたいに。
そして隙あらば分類知識を動員して食ってかかったり
おまけに分類を見せて性格を変えろと説得し出すかもしれない。


そうした行動は「分類が正しそうと信じている」から行われる。
もし分類が間違っているなら当然そんな事を相手に言ったりしないと思う。
しかし、先に書いたように場所や相手の価値観で性格や印象は大きく変わる事、
相手に変化を強要している時点で「敬遠される人物」に当てはまっている矛盾、
なによりこの分類自体が誰にでもどこにも当てはまる事を考慮すると、
どう考えてもそれを基に相手に是正を求めるような根拠は無いように思える。
大勢に支持されている分類だからといって、
それを根拠に是正しろというのは血液型診断を根拠に相手の性格を決めつけるのと大差無い。
有り体に言えば自分の言葉でこうして欲しいと求めたり
むしろ相手の良い面を無理して見つけるみたいな古い格言の方がよっぽど良い。


というような事を不覚にもこの分類を見て
「うわー、まったく俺の苦手なあの人じゃん。この分類でも見て性格直せよ」
となんの疑問もなく思ってしまった自分にきっちり猛省してもらうために書いておく。