山月記(中島敦)とスケジューリング

学校の勉強って年食ってからじわじわ効いてくるボディーブローみたいなもんだな。

かつての郷党の鬼才と言われた自分に、自尊心がなかったとは言わない。
しかし、それは臆病な自尊心とでも言うべきものであった。
おれは詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、
求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
ともに、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。


これがおれを損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、
果ては、おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ

自尊心が全くないのも問題。
萎縮し過度に自分を責め立ててしまい自分に価値を見いだせなくなる。
これでは社会的な生活を営むのも苦痛になるだろう。
逆に高すぎる自尊心は「自己中心癖」になってしまう。
そして自我が肥大し現実とのギャップを埋め合わせようと「利己主義」に走ってしまう。

上記独白から見ると李徴の場合は後者だ。
自身の欲望が正に「獣」になり捕らわれてしまった。

物事に捕らわれるか否かは生まれつきでもなんでもなく
単に小石に躓いた程度のものだと思う。
問題は躓いた際にどれだけ客観的に自分を顧みられるかどうかにある。

例えば目標設定でもこのタイプは従来のトップダウン形式の物より
ボトムアップ形式の方がやれる範囲と目標設定の違いが分析しやすくまた修正しやすいので
ボトムアップ形式の方が適していると思う。

壮大で大きな目標も良いが、大きな目標を立てれば立てるほど
日々の積み重ねが疎かになりがちだ。
壮大な計画を立てて胸躍る瞬間こそボトムアップ形式で物事を見直すべきだと思った。